2020.05.21 コロナウイルス感染症警戒解除下の町内清掃のお知らせ
今年度に入り感染症の問題により4・5月と休んでお… |
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江戸文化についてちょいとモノ申す。
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![]() 高野忠興:著 元柳町 元禄のころ、同朋衆居住の地だった。殿中で案内したり、茶、弁当の世話をする剃髪の小役人のことを同朋(童坊)といった。柳原の下にあったので、下柳原同朋町といった時もある。うら通り故、日かげ同朋町ともいわれた。いたるところ芸妓街で亀清楼、柳光亭も近く、「楼船で出入りする遊客多く」戸々軒燈をかかげて三味の音をきかせる。明治2年元柳町と改名。 新柳町 嘉永の切絵図でみると、ここは川上稲荷の社地である。将軍が大川筋乗船のとき、ここが上がり場であった。明治になって新柳町が発足した。新柳亭は昼夜席義太夫をきかせ、生稲、千代川の料理、待合茶屋は柳橋につらなって、遊船宿、芸者が多かった。 横山町 横山某が開設した地であるからこの名を得たという。むかし、ここに西本願寺があったが後築地に移された。旧跡に門跡の井という古井があった。明治のころからメリヤス商、小間物卸商が多い。花火問屋鍵屋がこの町にあった。 吉川町 むかし小川が流れていた。あしよしの類が茂っていたが、埋め立てて町とし、葭(よし)川町と名づけた。のちに今の吉川町に改めた。うら通りは元柳町につづくので、この町も芸者屋が軒をつらねた。表通りは広小路、商家が並び賑やかだった。両国餅、同汁粉店、紀文堂の煎餅、柳橋亭の天ぷら、松の寿司等。勧業場金花館は両国と向かい合い、隣りは新版もの絵草子を出す大黒屋浅草橋寄りには消防の火の見櫓高く、両国郵便電話支局、いろは第八番の肉店、柳数十株点綴する間に馬車鉄道が通い、九段坂-本所緑町に往復する。両国橋際にとまっては「本所行き」「万世橋行き」と呼んで客を呼ぶ。大川端、橋の左右のたもとには大橋、吾妻橋行きの隅田丸が発着する。 この町には著名な老舗五十嵐の油見世があった。店頭に高さ7尺横4尺の金文字の置看板がすえてあったが、中央に「冠髪香」左方に「五十嵐」右方に「江戸一番両国橋」と認めてあった。 若松町 西に松村町という町があって、この松村町の分地が若松町であり久松町である。よって、その名がついた。松村町は名主村松源六が開いた町なので、その名を得たという。若松町は商店が多かった。 明治座 江戸時代両国広小路にあって、3人兄弟とよばれた、こも張りの百日芝居だった。明治5年取り払いを命ぜられ、久松町に喜昇座と改めて開座した。その後、久松座、千歳座、日本橋座と次々改称し、ついに明治26年明治座と改めて今日に至る。 米沢町 古く正保(1645)の江戸絵図に御蔵というのが見え、天和(1681)の江戸図 と元禄(1693)の江戸図には矢の御蔵と見えている。 これが矢の倉で、広小路を中心に柳橋から吉川町、米沢町、横山町にかけて一帯3町にわたる区域に米蔵があった。元禄のころ米倉であったが、当時間部家がこの地を拝領して同屋敷となった。そこで、米倉は移されて築地本願寺の東、小田原町の海岸に転地したが、そこは汐風強く米がふけ米となったので、享保のころ浅草の御蔵へ移し合わされた。間部家が矢の倉へ来てから、両国から新大橋までの海岸を間部海岸とよぶようになった。 矢は野(や)とも、倉は蔵ともかかれている。もともとその辺の地を矢野といったという説もあり。また、はじめ八棟の倉があったから八の倉といったという説もある。また矢の倉の名の通り武器庫だったという説もある。 ともあれ、元禄のころこの地に米倉があったところから、米沢町の名が生まれた。すぐ隣が薬研掘が医者町だったせいだろう。この町には薬種屋が多かった。5臓円もその一つ。その間にあって、鳥安は創業100年、伝統の明治の味を伝えて異彩を放っている。 ![]() 米倉の矢の倉があったころ、米搬入の舟入り堀がほられた。矢の倉の外構の堀で、横山町まで入って、幅広く、浅草御米蔵の舟入り川もこの堀に続いた。この堀の形が薬を細粉にする薬研の形に似て、舟形で底がV字形であったことから、薬研掘と呼ばれた。明和のころ埋め立てになり、薬研掘埋め立て地と呼んだ。医者が多く住んだので医者町とも呼ばれた。明和5年薬研掘町と改められた。 ここの不動院は古い。紀伊国根来山大伝法院興教大師の作った不動尊像を天正13年、秀吉根来攻めのころ、釈大印が竹のつづらに背負ってこの地に運び来り、草庵を結んでこれを安置した。今から385年前、江戸開府以前のことである。江戸時代の月並み参詣の一つに数えられ、「28日不動参り。目黒・目白・薬研掘」と記されている。 (江戸総鹿子) S44.11.3 |