江戸情緒、魅力的な写真スポットとして注目を浴びるやげん堀界隈、穴場スカイツリーサイト、柳橋と屋形船、隅田川花火大会、初音森神社、歳の市、問屋街
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2017.05.23

やげん堀辻講釈の会

日 時:5月26日(金)18:30〜出 演:神田 蘭会 …


 

 

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江戸文化についてちょいとモノ申す。

 

 

 

 



 関ヶ原の合戦の翌年に当る慶長6年から大政奉還の慶応3年に至る約260年間に、大事になった火災は実に140回、延焼区域の少なかった小火災までいれると数えきれないほどの回数にのぼる。焼かれては建て焼かれては建てるという江戸っ子の災難に屈服しない気概ばかりをほめぞやしてはいられない事態となったのである。
 そのように数多い火災の中でも、第4代将軍家綱治下の明暦3年に発生したいわゆる「振袖火事」は、10万を越す犠牲者を出し、将軍の居城たる江戸城天守閣まで焼き払ってしまった。明暦3年の正月は、元日、4日、5日と相ついで小火があったが、18日の午後、本郷5丁目の本妙寺から出た火は折からの大風にあおられて、400町に及ぶ町屋をなめ尽くした。勿論、ここ日本橋両国地区も火の海となり、庶民の営々と築きあげた財貨屋敷悉く灰となってしまった。水を求めて隅田川の川辺に集まった避難の群衆は対岸を目のあたりに見ながら橋なきためになす術なく、犠牲者の数は一層ふえたのである。
 このことあって2年目の万治2年12月、両国の地から対岸へ両国橋の架設工事が開始され、よく万治3年幅4間、長さ96間の大橋の完成を見るに至った。大川の流れを一またぎするこの立派な橋は当時の江戸市民、殊に川を越せぬばかりに多くの犠牲者を出した明暦3年の大火の惨状を見た人々は、まさに「竜」の横たわるような頼もしさを覚えたのであろう。
 朽梁新たに建ちて長流に枕す。人は是れ陸行し吾は舟に在り。疑ふらくは猛竜横臥するの勢に似たり。総州は尾なり武は頭為り。
という詩までよまれたほど、江戸市民がこの橋に寄せた期待は大きなものであった。
市民の大きな期待にそむかず、両国橋は単に火災事の避難設備の域をはるかに越えて、両国住人たちに大きな貢献をしてくれた。
 橋の西畔は新たに密集した町屋の建設を許さず、火除け地として広々とした場所が確保された。両国広小路はかくして誕生し、同じ意図のもとに設けられた上野・浅草の広小路と共に江戸三大広小路の一つに教えられるようになったのである。
 時代が進み、消防活動も積極化するとともに、いまわしい火災の数も比較的少なくなり、広小路は町の盛り場へと変っていった。両国橋西畔の幕末時代の様子を見ると、武家地や官有地を含めて数ヶ町が形成されていた。云うまでもなく火除け地の役目を果させるため通りは殊のほか広く、名実ともに両国広小路の名にそむかない立派な町となっていった。当地の幕末から現在に至る町名の変遷を辿ってみると、慶応2年、横山町3丁目、横山同朋町、米沢町1・2・3丁目、吉川町、下河原同朋町及びその新地、薬研堀埋立地、武家地、官有地という有様であった。明治6年になると横山町同朋町は若松町に、薬研堀埋立地と武家地は薬研堀町に日本橋両国に統一されてしまった。
 合理的施策に基く町名の変更統一は、それなりに理由のあることであり、批判なしに反対することはできないにしても、両国に住み両国の地と生活を共にしてきた人々にとって、この地が江戸の市民生活に重大な関係をもった広小路をかかえていた事や、そして両国の町の歴史を秩序立てて子々孫々に伝えていく事は、今日生きる人々の大きなよろこびであり義務なのである。
(s44.11.3)

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