江戸情緒、魅力的な写真スポットとして注目を浴びるやげん堀界隈、穴場スカイツリーサイト、柳橋と屋形船、隅田川花火大会、初音森神社、歳の市、問屋街
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2017.06.23

町内清掃

7月2日(日)朝7時〜8時 町会会館前朝7時スタ…


 

 

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江戸文化についてちょいとモノ申す。

 

 

 

 



 日本の歴史の中に「東京」およびそれを包含する武蔵国が登場してくるのはそんなに新しいことではない。遠く平安の昔、平将門が大反乱を起こして時の中央政府を仰天させた頃から、大きな発展性を秘めた東国、殊に武蔵国に期待を寄せていた官人、武人の数は枚挙に遑のないくらいである。
 とはいえ、東国の夜明けは、源氏が鎌倉に幕府を開いたときに始まる。仏教という新思想に目が眩んだ奈良朝廷の独善ぶりや、事なかれ、当たらずさわらずの消極的平和主義の上に立った藤原貴族の専横ぶり、更には武人を以って自ら任じながら平安貴族の夢を追った平氏政権の軟弱ぶりにしびれを切らせた源氏の頼朝が日本の歴史に東国を登場させた功績は忘れることができない。
 不幸にしてこの源氏の創始した鎌倉の府も、同じ東国武蔵国とは目と鼻の間にありながら、その発展を東京まで及ぼさないまま、戦国動乱の中に歴史の表面から薄れていってしまった。室町幕府によって設置された関東管領は場所こそ鎌倉幕府と同じでありながら、ただ徒らに東国の権力争いに拍車をかけたようなもので、少しも東国発展に寄与するところはなかったわけである。
 このように過去にいくたびか政治文化の中心にのしあがろうとしては、それを果たさなかった東国のしかも由緒ある鎌倉の地とは別の江戸湾の奥に拡がる「東京」の発展性を予知して、関東移封を快諾し「江戸御討入り」をした家康は、よく東京開府の恩人とされる太田道灌以上の、東京、江戸開発の先駆者であった。
 天正18年8月1日、彼は自分の力で苦心の末手に入れていた三河、駿河、遠江、甲斐、南信濃の5ヶ国を惜しげもなく捨て、江戸に幕府の本拠を構えるに至った。その後14 年目の慶長8年2月、彼は征夷大将軍に任命されるまでの間に、下準備を整え終った江戸の町の経営に超人的な手腕を振い、江戸260年の隆盛の基を築きあげた。徳川家の基礎安泰と見極めるや、将軍職を第2代の秀忠に譲り駿河に引退した家康の理想は、徳川幕府幕藩体制の下の施策として着々と実現されていった。
 道灌時代、城とは名ばかり、葦原の中の破屋であった江戸城を中心とする城下町を建設する傍ら、経済統制の目的からその周辺、殊に城の東部に一大商業地の設置を計画、実現した。日本橋・両国地区の商業地としての発展はこの時から約束されたわけである。この商業地には以前からの土着の人々は勿論、諸国から幕府の保護の下に参集した人々によって活発な商業活動がはじめられた。日本橋の魚河岸、神田の青果市場などすべて幕府の肝入りで急速な発展をしていった。関東大震災まで薬研堀と呼ばれた横山町から隅田川に通ずる運河は、諸国から集まる物資の輸送路として、またその陸揚げ集散地として江戸の商業に不可欠のものだった。清らかな、豊かな水の流れる隅田川を目前にひかえた両国地区の繁栄ぶりは次の江戸名所図会の記述によってもうかがい知ることができる。
 陸には観物所せきばかりにして、その招碑の幟は風に飄りて扁飜たり。両岸の飛楼高閣は大江に臨み、栄享の床几は水辺に立てつらね燈の光は玲瓏として流れに映ず。楼船扁舟所せくもやひつれ一時に水面を覆ひかくしてあたかも陸地に異ならず。絃歌鼓吹は耳に満ちてかまびすしく、実に大江戸の盛事なり。
 というように、江戸下町日本橋両国は山の手地区や江戸城周辺の武家屋敷地区とは異なった庶民の町としての繁栄を謳歌したものである。  しかし、屋並みが立てこみ、町が発展していく好景気とはうらはらに、江戸の町は、喧嘩とともに火災という厄介なものを背負いこんでしまったのである。

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